半田正子さん解説中鑑賞中展示風景
半田正子さんは水彩画教室を持たれています。その生徒さんも来廊されます。
浅草・銀次親分ヤマアジサイ
通りがかりのご婦人が入ってこられました。羽織っておられる夏のジャケットがまた素敵で正子さんと褒めました。西条にご縁のある方で散歩がてら歩いていると画廊があったとのこと。実は私も浅草で画廊をしていますと名刺を頂きました。
最後の版画「酔いどれ」鉛筆デッサン
2000年半田敬史郎は日本アンデパンダン展、イタリア・マッサロンバンダ市での4人展、ドイツ・フュルト市の平和美術展などに出品。9月29日エッチング作品「酔いどれ」を刷り上げて10月2日に入院、造血肝細胞移植を目標においた化学療法を始めました。しかし、新世紀まで2日という12月30日、肺炎による呼吸不全で永眠。49歳でした。
「光りとともに」2000年制作アクリル画の線
晩年に多く描いたアクリル・コラージュは一見、布目に見えますが0号の面相筆を遣いフリーハンドで引いています。不安と痛みを忘れるためであったかもしれません。
梅雨らしく降ったり止んだりの一日でした。


それぞれの感想ウィンドの「バベルの塔Ⅰ」を観ています
梅雨の晴れ間の予報でしたが厚い雲がありお日様が見えません。半田正子さんのフアンの方たちが来廊されます。
宇宙のカーニバルⅢ
山形に帰った半田敬史郎は1998年から2000年にかけてアクリル・コラージュ混合技法による板絵を精力的に制作しています。
「とまどう風景展」図録と「家族の風景」
1999年48歳の半田敬史郎は5月に病気が再発し入院、再び放射線治療をうけます。7月、家族でウルビーノを再訪、9月の正子との二人展「とまどう風景」展の準備などして帰国後入院し11月まで化学療法をおこないました。

1999年9月ウルビーノでしかもラファエロの生家での展覧会を開催できるということは、私達二人にとって望外の喜びです。と「とまどう風景」展の挨拶にありました。また、半田敬史郎は「家族の風景」の作品によせて書いています。

『「家族の風景」 ボクは病を得た。朝目覚めるたびに、夢にとって替わってこの身に押し入ってくる、それは出来れば一刻も早く逃れ去りたい辛い現実であった。ところが時折、自分の置かれている現実が、自分のものでない、まるで他人事のようなめまいにも似た奇妙な気分になることがあった。はたして自分にとって現実とはなにか、最近そのことの意味を考える。生きてある現実。それはなによりも自分自身であり、自分をとりまく社会であるのだが、問題はその接点にあるのだろう。そしてその接点にあるものがボクにとっては家族であった。
これが家族の風景を描こうと思った理由である。』


上田勇一さん・宇野貴美恵さん半田正子さん
松山からは上田勇一さんが、ギャラリーリブ・アートでの作品展を終えた宇野貴美恵さんもやっと来られたと言って見えられました。鬱陶しい梅雨空ですが半田正子さんのお知り合いが来廊されます。
半田敬史郎さんの山形のご兄弟からの花束
半田敬史郎さんの二人の兄上と二人の姉上から花が届いています。山形でご健在です。
夏の夜空Ⅰ夏の夜空Ⅱ
1997年、半田敬史郎は冬から続く鼻の詰まりのため、ウルビーノの病院で手術を受け、組織から異常細胞が見つかりリンパ種と診断。治療のため帰国、入院、放射線治療と科学療法を受けています。その年に制作した「夏の夜空」ⅠとⅡ。


風雅さんから説明を受けています第二体操
月に一度の野暮用を済ませ今日も風雅さんところへ。先日預けた額の件やマットの入れ替え額など。風雅さんところの午後の仕事はラジオ第二体操をして始めます。カメラ目線がいかんと、ぎゃらかわBOX子に注意を受けました。
愛大病院駐車場のメタセコイヤの実大きなタイヤ
松山からの帰途、高知道の大豊と南国の間は霧のため通行止めの表示が出ていました。大雨であったり霧であったり高知は山一つ隔てただけで大きく天候が違います。愛媛は石鎚山のお陰です!
白花ホタルブクロ赤花ホタルブクロ
今朝、ホタルブクロが咲いているのに気が付きました。蛍便りも届くころです。
杜若かな?葉は杜若これは菖蒲
「わんこそばもどき」のMさんからも季節の花便りです。


パッケージの袋がすてき半田正子さんと
宮島明さんから羽田空港限定のお土産。早々の入梅で降ったり止んだりの一日です。ワールズエンドカフェの夏田さんのフェイスブックを見て来廊される方は皆さんお若いです。若い方に観ていただきたいですね。
バベルの塔Ⅵタンポポの飛び立つ綿毛バラの蕾と実何の魚?コカコーラの文字が見える蝶
お一人で来廊された半田正子さんの若いお知り合いの方がいました。ギャラリーの正面に掛けている「バベルの塔Ⅵ」の前に立って観ておられましたが突然深い思いが込み上げてきたようです。涙が止まらなくなりました。暫く椅子に掛けてお気持ちを静めてからまたゆっくり絵と向かい合いました。卓に置いてある作品集も手に取られてお茶も飲まれて「半田敬史郎展」を観てくださいました。
半田敬史郎
明日は定休で休みですが30日木曜日からも「半田敬史郎展」続いています。


ご友人山形から花束手作りケーキ
すこし気温が下がったかなと思いますがこの季節にしてはやっぱり暑い!スポットも点けているのでギャラリー内は暑いです。「彩西」を見て来ましたと来廊された方は半田正子さんの姉妹と同級生の方でした。親御さんの介護で東京から帰省中とのこと。こういう事情の方が多くなりましたね。そして山形から半田敬史郎氏のご兄弟から花束が届きました。正子さんのご友人Mさんからは手作りケーキが届きみんなで頂ました。
木の葉魚Ⅱ森の記憶
1996年、半田敬史郎は精力的に制作をしてオーストリア、ドイツ、南仏と旅にでています。ドイツの黒い森を見て回り「やっぱり深い森はボクの心の中にあるようだ」と日記に書きました。ミュンヘン州立近代美術館でエルンストに感動。「ボクの目指すものは間違っていない」 しかしパリ市内では体調が優れず、のどの痛みと発熱が続いたのでした。 2枚ともこの年の作品です。


正子さんのご友人などギャラリー
日曜日の今日は何かと催しがあり来廊される方は次々ハシゴをされているようです。見せてくださいと入ってこられた若い方がいました。初めてお見かけする方です。「彩西」をご覧になられたのかと思い尋ねてみました。その方は西条で研修があり徳島から来られたのでした。ギャラリーかわにしでの「半田敬史郎展」を観たとフェイスブックに出ていてギャラリーかわにしを知ったそうです。近くだから寄ってみようと来られたのでした。う~ん!フェイスブックの拡がりはすごい!
「イル・テンポ」(時間)
1995年半田敬史郎44歳。この年の6月、ブルーノ・チェーチ氏の強い要請でトラザンニ教会前の野外彫刻コレクションに参加しました。作品は「イル・テンポ」(時間) 半田正子さんは彫刻の真ん中に植えたオリーヴが大きく育つのを楽しみにされています。


半田さん解説中ギャラリー
今日は「池西剛 連続講座」の日です。先ほどまで講座に参加される方たちがギャラリー内に居られましたが5時まえに出ていかれました。
バベルの塔Ⅳバベルの塔Ⅴバベルの塔Ⅵ
半田敬史郎は1989年、日本美術会付属研究所で知り合った伊藤正子と結婚、銅版画を始めています。準備をすすめ1992年には二人で美術留学のためイタリアへ渡りました。ウルビーノに居を構えアカデミア・ラファエロ工房で研修。すべての時間をエッチングに費やす日々が始まったのです。1994年43歳、長女誕生。その間「バベルの塔」のシリーズ「、犠牲の丘」「鳥の棲む森」を制作しています。


半田正子さん解説中新聞取材中アントネッラと記念写真
きのうの夕刻に見えられたアントネッラさんです。「いよせき21」の今年度の招待作家である石彫作家アントネッラさんはイタリアから来られました。半田敬史郎さんと共にウルビーノに滞在されていた正子さんはアントネッラさんと会話ができます。何度かお会いしていたお二人なので26日には日本を離れるアントネッラさんとの記念写真です。
夏の午後 1984年制作 油彩
1951年山形市本沢の農家に半田敬史郎は生まれました。1970年山形工業高校卒業後、北辰電機㈱(東京都大田区)に就職します。職場のサークルで絵を描き始めたのでした。1973年には国学院大学文学部二部に入学、詩の同人誌「詩とにんげんの村」に参加し作品を発表しています。国学院大学文学部を卒業した年に「詩とにんげんの村」を退会、日本美術会付属研究所「民美」第6期に入所しています。1983年32歳、約10年に渡り労働争議をたたかってきた北辰電機労組の前面勝利を得てこの期に北辰電機を退職しています。翌1984年33歳、社会厚生施設「元木寮」(東京都)の指導員として就職しました。そのころ平和美術展に出品したのが「夏の午後」です。昨日の「ザリガニをつる子」もこの年に描いています。
「半田敬史郎展」動画、ユーチュブに出しました。撮りかたのへたくそな店主ですが雰囲気だけでも観てください。ズームの音が出ていてふきだして笑ってしまったという視聴者の方もいたようです。
  


恒例の立看板1984年作 「ザリガニをつる子」ウルビーノ風景
「半田敬史郎展」始まりました!入り口に掛けているのは1984年33歳であった半田敬史郎の油彩画「ザリガニをつる子」  3枚目はイタリアでの居住地「ウルビーノの風景」
CATVの取材中取材中
一番にCATVの取材がありました。店主も負けずに動画の取材を済ませましたがスムーズな動きが出来ていません。見難いですが観てください。
熱心に観てくれます
観られた方は一様に感動なさいます。