青白磁の掛花、置くこともできます。白と紫のホタルブクロ、大家さんが裏庭に植えているガーベラを挿しました。
青磁の祭器、すっきりと綺麗です。そのままでも存在感がありますが何かを乗せることもできます。
遠藤さんの食器、何を盛ろうか浮き浮きしますね。
入道雲になりそこないの雲が出ていました。雨の降らない梅雨です。
2003年3月 ウルビーノでKAUS発足
『ウルビーノは世界各地から訪れる芸術家をつねに歓迎してきました。文化面のみならず、日常生活の面でもウルビーノの人々は来訪者たちが持っていた能力から学び、栄養を受け取り、一方訪れた人々は街から類まれな調和と均衡を受け取ったのです。
ウルビーノでの敬史郎の存在も、ウルビーノの人々の生活に何らかの印を残しています。彼は人間的、芸術的な点で、多くのことを学び、また彼の芸術のファンのみならず、旅の友人たちにも多くのことを与えてくれました。敬史郎一家のウルビーノ滞在は、海外からの芸術家とウルビーノとの友情の、シンプルで意味深い例といえます。それが、今回当地で新たに立ち上げた組織の名前を敬史郎に捧げようと考えた動機です。KAUS(Keishiro Arte UrbinoScuoa-ケイシロウ・アルテ協会・カウス)
国内外で、主にエッチングに焦点をあてた教育交流活動、展覧会活動を展開することを目的にしています。それを通じて私たちの街ウルビーノが、創作版画の分野および視覚美術の各分野での自己形成を望む人にとって基点となりうる街でありたいと願っています。』
「半田敬史郎作品集」運命についての好奇心ーKAUSの発足に当たってーより ジュリアーノ・サンティーニ
6日からの「遠藤裕人展」の搬入が明日になっているので「半田敬史郎展」の余韻のなかギャラリー内を片付けます。戸田さんが同じアジサイでも土の成分でこんなに色が違ういい例と見せてくれました。一枝づついただき早速李朝棚に遠藤裕人さんのコップに挿し、半田敬史郎さんの「鳥の棲む森」を掛けます。
奈良のIさんが今年も山椒の実を送ってくれました。きれいに小枝を取り除いています。小梅や野菜も入れてくださいました。
2004年の6月3日からこの「ぎゃらかわBOX」は始まりました。その日は梅雨の晴れ間の青空が拡がっていました。「念願のHP、六月の風に乗って遠くまで届きますように!」果たして遠くまで届いているでしょうか?
梅雨空のなか最終日のこともあって遠くからも来廊くださいます。「半田敬史郎展」に今日で3回目になるNさんも傘を差してお見えになりました。オチキクハルさんから是非観ておいたらいいよと勧められて初めて来廊された方もいます。
「犠牲の丘」
彼は何故みずからあの丘にのぼっていったのか
そのことが長い間の疑問だった
裏切りも咎もあざけりの茨も 流された血さえも
あらかじめ予定されていたことにすぎないのだから
けれどボクは一瞬だが
彼の視線が予言された光の王国をはるかに越えていくのを
見たような気がしたのだ
そのまなざしの底深く
光と闇が手を携えてめぐりくるざわめきの世界を
見たような気がしたのだ
「とまどう風景」より 半田敬史郎
半田敬史郎は山形の森に還っていきました。ドイツの黒い森ではなく木々の間から空や雑木の枝葉が透ける半田敬史郎のふるさとの原風景である山形の森です。
そろそろ7時です。「半田敬史郎展」今までとは違ったお客様の層でした。来廊された方が友人知人に勧めてくださるといったパターンでした。若い方たちにも観ていただき嬉しかったです。知的高揚のなかで「半田敬史郎展」終えます。今回もご来廊ありがとうございました!
半田正子さんは水彩画教室を持たれています。その生徒さんも来廊されます。
通りがかりのご婦人が入ってこられました。羽織っておられる夏のジャケットがまた素敵で正子さんと褒めました。西条にご縁のある方で散歩がてら歩いていると画廊があったとのこと。実は私も浅草で画廊をしていますと名刺を頂きました。
2000年半田敬史郎は日本アンデパンダン展、イタリア・マッサロンバンダ市での4人展、ドイツ・フュルト市の平和美術展などに出品。9月29日エッチング作品「酔いどれ」を刷り上げて10月2日に入院、造血肝細胞移植を目標においた化学療法を始めました。しかし、新世紀まで2日という12月30日、肺炎による呼吸不全で永眠。49歳でした。
晩年に多く描いたアクリル・コラージュは一見、布目に見えますが0号の面相筆を遣いフリーハンドで引いています。不安と痛みを忘れるためであったかもしれません。
梅雨らしく降ったり止んだりの一日でした。
梅雨の晴れ間の予報でしたが厚い雲がありお日様が見えません。半田正子さんのフアンの方たちが来廊されます。
山形に帰った半田敬史郎は1998年から2000年にかけてアクリル・コラージュ混合技法による板絵を精力的に制作しています。
1999年48歳の半田敬史郎は5月に病気が再発し入院、再び放射線治療をうけます。7月、家族でウルビーノを再訪、9月の正子との二人展「とまどう風景」展の準備などして帰国後入院し11月まで化学療法をおこないました。
1999年9月ウルビーノでしかもラファエロの生家での展覧会を開催できるということは、私達二人にとって望外の喜びです。と「とまどう風景」展の挨拶にありました。また、半田敬史郎は「家族の風景」の作品によせて書いています。
『「家族の風景」 ボクは病を得た。朝目覚めるたびに、夢にとって替わってこの身に押し入ってくる、それは出来れば一刻も早く逃れ去りたい辛い現実であった。ところが時折、自分の置かれている現実が、自分のものでない、まるで他人事のようなめまいにも似た奇妙な気分になることがあった。はたして自分にとって現実とはなにか、最近そのことの意味を考える。生きてある現実。それはなによりも自分自身であり、自分をとりまく社会であるのだが、問題はその接点にあるのだろう。そしてその接点にあるものがボクにとっては家族であった。
これが家族の風景を描こうと思った理由である。』